(休日版) 漱石とユゴー、「国民作家」の和と洋

先日、友人の友人に紹介された際に、なぜかユゴーレ・ミゼラブル』の話になった。友人も、そのまた友人も、私よりも少し年嵩で、社会経験はよほど豊富なのだが、大人になって読みなおした『レ・ミゼラブル』が、とにかく面白いというのである。
ベトナムではキリストとブッダとビクトル・ユゴーを合わせて拝む、不思議な混交宗教があるが、それほどに国際的な偉大さを誇るユゴー。彼の代表作の内容は、いったい、いかなるものなのか?
レ・ミゼラブル』が不思議なのは、主人公ジャン・バルジャンの人間造形の薄っぺらさである。肉声と呼べるほどのセリフがほとんどなく、そのくせ行動は相当に英雄的なのだ。世界的な名作だとしても、それは小説としての完成度の高さゆえではないだろう。
日本の読者の中には、作中に登場する泣かせる話が印象に残っている人が多いだろう。ジャン・バルジャンの「飢えた家族に食べさせるためのパンを盗んで獄中に」とか、コゼットの悲しい生い立ちなど、確かに普遍性のある貧乏話だ。
だが、泣かせる貧乏話が何個かあるだけでは、あの長大な物語にはなるまい。それに、ジャン・バルジャンは実業家として成功し、コゼットも彼にもらわれて令嬢生活をした挙句に、マリウスという、ちゃんとした青年と結婚するではないか。いわば、ハッピーエンドなのである。
実は『レ・ミゼラブル』を名作にしているのは、小説としての出来栄えではない。ユゴーは物語技巧においても文章力においても卓越した作家だが、これは通常の小説ではない。
レ・ミゼラブル』は、フランスという国、フランス人の歴史的経験を、一つの物語の形に凝縮した書物なのである。
だからこそ、文字が読めるかどうかも怪しいジャン・バルジャンが、後に実業家、それも新技術を駆使した産業資本家として立身を遂げ、過去の行いがもとで警察に追われる身になってからは、若き犯罪者時代と変わらない体力と狡知を発揮できるのだ。良い小説というものでは、主人公に人間的な時間が流れており、成長も老いもあるものだが、ここにはそれが一切ない。
それは、ジャン・バルジャンが一個の個人ではなく、フランス人を象徴する存在だからである。彼につきまとう悪人テナルディエとその一家は、旧体制時代のフランスの民衆の生活に常に影を落としていた貧困と無知であり、やはり延々とジャン・バルジャンを追い回すジャヴェール警視は、旧体制における国家機構の重量感を示している。フランス人は蒙昧と犯罪に身を落とす危険性が高く、そして心のどこかでそうした重量によって自由を奪われることを求めてしまうというユゴーの認識が、この二人の悪役とジャン・バルジャンとのやりとりの中から浮かび上がるのだ。ジャン・バルジャンが必死で守り、そしてついには守り抜くコゼットは、フランスの未来なのである。
こう考えてくると、『レ・ミゼラブル』の摩訶不思議な構成も理解可能となる。この小説は、通常の小説がそうするように、単線的にジャン・バルジャンの経験を語っていくわけではない。一章ごとに、たとえばワーテルローの戦いの顛末を映画顔負けの映像性でもって詳述したり、パリの下水道について蘊蓄を披歴したり、あるいはパリ方言の変遷について長々と述べたりするのだ。ジャン・バルジャンを一泊させ、彼が盗んだ銀の燭台を「与えたものだ」という神父にしても、その人となりを説明するのに、まるまる一章を費やしている。コゼットが生まれるまでの経緯も、それだけでモーパッサンなら長編にしてしまうような具合なのである。
これらの、ジャン・バルジャンの物語でない部分は、総体としてフランス文明に関する百科全書的な記述になっている。そして、フランス文明の構成要素を舞台の大道具として、フランス人ジャン・バルジャンが未来に向けて苦闘する。これが『レ・ミゼラブル』の隠された意味である。そして、この美しいビジョンは、19世紀半ばの文字の読めるフランス人の大多数が共有していたものだった。だからこそ、これは熱狂的に読まれ、ユゴーナポレオン三世の政敵だとされたのである。
フランスのすべてを凝縮した物語、それが『レ・ミゼラブル』だった。まさしく、国民文学とは、こういうものだろう。これを読んですべてがわかるのはフランス人であり、これを読んですべてをわかるようになれば、誰でもフランス人、なのだ。

ユゴーの文業と対照的なのが、夏目漱石である。この人の書くものが、いったいどうして日本の国民文学なのか、かねて私には理解不能であった。というのも、漱石が生きていた当時の日本というのは、とにかく国民がやたらと政治的な時代だったのに、漱石の小説はまるきり没政治的なのである。没歴史的と言ってよいかもしれない。
明治の日本を生きた人たちは、大人は江戸時代への懐旧の念でいっぱいだったし、若者は維新のいわゆる元勲たちの、信じられないような大出世に負けまいと、次々と新しいものに飛びつくという状態だった。落ち着きがなく、その落ち着かなさが穏やかな過去と鋭く対照させられる時代だったのだ。
ところが、漱石は何を書いているか。猫の独白であり、田舎の学校のどうでもいい人間模様であり、不倫であり、高等遊民の生活であり、帝大生の健やかな成長ぶりである。賭けてもいい。漱石の小説に出てくるような人間たちは、書かれた当時の日本には、一人として存在しなかった。激動の時代には、視界を遮るものがなくなり、時代相を的確に捉える、明確な小説が生まれるものなのである。明治の日本は、『レ・ミゼラブル』を上回る大ロマンを生んでしかるべきだった。
だが、そうはならなかった。静謐で、没歴史的な夏目漱石が、日本文学の源流となってしまった。これは近代日本文明史の大いなる謎と言うべきであろう。
興味深いのは、漱石が偉くなるのと表裏一体のようにして、東京帝国大学朝日新聞岩波書店などの、今にいたる「知のブランド」も成立していくということだ。「あの漱石」が学んだ帝大、「あの漱石」が記者になった朝日新聞、「あの漱石」が全集を出した岩波書店、という具合である。だが「あの漱石」は、およそ自分が生きた時代とは関係のない、不可思議な小説を書いていた。
それでも漱石作品が読まれていたのは、漱石が学歴エリートだったからだろう。これから上京して「何者か」になろうと夢見る、田舎の野心的な青年たちが、東京の新生活を想像する糧としたのである。この、地方のあこがれの視線がその後も日本の純文学を支えてきた。また、漱石作品の没政治性、人為性によって、明治日本の本当の精神状況、政治状況はうまく隠されてきたと言える。漱石伝の決定版を書いているのが、戦後の論壇において最も政治的だった江藤淳だったというのは興味深い。明治社会の実相を戦後になっても隠ぺいし続けることが、国益にかなっていることを示唆するからだ。
けっきょく漱石は、明治日本においては、まだ誕生していなかった、国として将来かくあってほしい日本人を描いていたのだと言える。そ漱石の人物造形が、『レ・ミゼラブル』のラストで登場する、コゼットとマリウスの夫婦並みに魅力がない者ばかりなのは、当然なのだ

では、日本人にとって本当の国民文学とは、どのような形をとるべきなのだろうか? これが難しい。『坂の上の雲』にしても、藩閥批判、軍神批判という形をとっているが、藩閥の存在なくして戦前の日本は語りえないだろう。いっぽう、その藩閥が排除してきた人間ばかりを描いて感動的な物語が、手塚治虫の『シュマリ』だが、これはマンガだという事情をさておいても、やはり日本の全人口の、ごく一部でしかない。『砂の器』などを呼んでいると、松本清張も当時の日本の総体を一つの物語に落としこもうとして頑張ってはいるが、いかんせん、これは小説として(ミステリとしても)お粗末に過ぎる。その他、いろいろと思いつきはするものの、日本人の経験を総体として描いた作品というのは、ついに書かれていないように思われる。いや、そういうものを書かせないための装置としての夏目漱石かもしれない。どうやら日本国家は、ビクトル・ユゴーの危険性を十分に承知しているようで、私たちとしては自分たちの国家がそれだけの教養を備えていることでもって、満足するべきなのかもしれない。