(休日版) ゾンビ映画今昔

ジョージ・A・ロメロの新作『Survivial of the Dead』が完成して、来年春の公開を待つばかりとなった。「Dead」と「Survival」が同一タイトルに含まれる珍妙さは、言うまでもなくロメロお得意のゾンビ映画だからである。内容は、離れ小島を舞台にした二つの一族の確執に、いつものゾンビ騒動がかぶさった、西部劇仕立てのホラー・コメディなのだという。
2010年にはまた、ロメロのゾンビもの以外の傑作(まあ、ロメロの映画はどれも面白いのだが)『Crazies』のリメーク版も公開される。こちらはおバカ・アクション『ヒットマン』に主演したティモシー・オリファントと、アカデミー賞も受賞したものの、ファン的には『ピッチ・ブラック』『サイレント・ヒル』などSFホラー女優の印象が強烈なラダ・ミッチェルの主演となっている。2009年にはゾンビものの小品『Diary of the Dead』が公開されて話題になったロメロだが、来年はいっそうの存在感を発揮しそうな勢いなのだ。
だが、ゾンビ映画というジャンルの「存在感」は、ロメロのそれを上回るものかもしれない。少なくとも、ロメロ映画よりはゾンビ映画のほうがたくさん公開されることは確実である。ウディ・ハレルソン主演の『Zombieland』やフランス製の『Horde』などの大作を筆頭に、来年もまたアメリカはゾンビ映画祭り状態なのである。しかも、ゾンビ映画自体が細分化しており、「ナチス・ゾンビもの」みたいなサブ・ジャンルまで発生しつつある。
中学生の時に劇場公開で『ゾンビ』を見て以来のゾンビ・ファン、ロメロ・ファンの私としては、このような展開は、まあまあ嬉しい。また、1968年の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』でもってロメロが「ゾンビもの」というジャンルを生み出した、さらにいえば「人肉を喰らい、感染性をもったゾンビ」という、一個のモンスターの設定を考えたことは、つくづくと凄いことだと思う。凡打に終わった『ランド・オブ・ザ・デッド』の公開に先駆けて、ホラー関係者にインタビューをして回った特番をケーブルで見た際に、ロメロのゾンビ映画の新作は「ミケランジェロがシスティン礼拝堂をもう一つ作るみたいなものだ」と褒めていた太った人(ギレルモ・デル・トロか?)がいたが、確かに何かまったく新しい、重要な概念を生み出した人としてロメロは特筆されるべきなのだろう。
ゾンビ映画の増殖(怖いね)が急激に進んでいる理由の一つは、ビデオゲームのおかげだと思われる。確かに、『ゾンビ』は優れたアクション映画でもあった。そこへもってきて、悪役が特異で、しかもある種魅力的で、数が多い、無尽蔵に多いとくれば、確かにシューティング・ゲーム化にはうってつけだ。
また、プレイヤーが殺している相手が、そもそも生き物でないのだから、残酷なゲームだという親などの非難を、少しはかわせるという計算も、制作側にはあるはずだ。ゲームを下敷きにした『バイオハザード』が、主演のミラ・ジョボビッチの人気(この人もホラーとSFばかりである)も相まって3作目まで作られ、第4作の制作もスタートしたというあたりに、ゲーム系ゾンビ・ファンの数の多さがうかがわれる。
とはいえ、ゾンビ映画が成長し、定着した背景には、ちゃんと時代相とシンクロしている側面があるのも、また確かなことだ。「ゾンビを射殺する快感」という動物的な側面だけでなく、作品を通じて時代精神を体感するという、芸術鑑賞の王道を行くような受け止め方も可能だからこそ、ゾンビものに対する支持は、かくも熱いのである。
では、その時代相とは、いったい何なのか?
一言で言って、経済成長がストップした後の、ドルの長い衰退の歴史である。そしてドルの衰退とは、すなわち平均的なアメリカ人の窮乏化の歴史でもあった。ゾンビとは、つまり貧困のメタファーなのである。
まず、ゾンビもの第一作の『ナイト・オブ』が1968年だったのは偶然ではない。1968年と言うと、アメリカ軍がベトコンに押しまくられたテト(旧正月)攻勢の印象が強烈だったせいで、ベトナム戦争との関連が語られることが多いが、実はドルが増えすぎてブレトン・ウッズ体制が動揺しはじめた年でもあった。何の裏付けもなく増殖するドル、という時代背景の中で、ウィルスなのか呪いなのかもわからないうちに増えていくゾンビの物語が誕生したのだ。
お次が、ショッピング・センターを舞台とする『ゾンビ』こと『Dawn of the Dead』である。
そして、あっという間に人類は地下の基地に追い詰められたのが『デイ・オブ・ザ・デッド』で、『ダイアリー』も、次の『Surivival
of』も、おそらく段階的には『デイ』と同じ、人類終焉の直前くらいを描いているのだろう。そして、これらの一連の作品における人類とゾンビのパワー・バランスというのが、ドルというかアメリカ中心の世界経済秩序の命運と、軌を一にしているのだ。
『ゾンビ』は、第二次オイル・ショックのあった1979年に本国で公開されているし、『デイ・オブ』はプラザ合意でドルが円とマルクに対して大幅切り下げ(円に対しては、価値が半減している)は1985年の公開だ。そして、『ダイアリー・オブ』はリーマン・ショックのあった2008年の公開だった。
唯一『ランド・オブ』は2005年と、何も起きていない年だった(むしろ、アメリカ経済は、かなり好調だった)が、だからこそ、これは凡作だったのだろう。
となると、来年公開の『Surivival』が傑作だったら、そのあたりで2番底がくる……というのは、いつもの私の論調なのだが、とにかくロメロのゾンビの正体が、これで少しはおわかりいただけるのではないだろうか。ゾンビとは、感染性の貧困、つまり経済危機のことなのである。
面白いのは「ゾンビ=ドル、もしくはアメリカ経済」という暗号が、一連のロメロ作品以上に鮮明に出てきたのが、リメイク版『ドーン・オブ・ザ・デッド』だったという事実だ。この作品の場合、冒頭シーンが美しい郊外の住宅街におけるゾンビの大量発生と秩序崩壊なのだが、これは実はサブプライム危機を予告していたのである。また、主人公たちが立てこもったショッピング・センターをとりまくゾンビの数の多さ、元気さを見ると、これはクレジット・カード破産した人たちの群れを描いたものなのではないか。
けっきょく、1971年に金本位制を放棄したことで、ドルはある意味、死んだのだが、ハイパーインフレを経て紙切れになるという形での活動停止が、まだ訪れていない。ドルは、ゾンビ・マネーなのである。だから、ゾンビ映画を作るのだとすれば、最高傑作『ゾンビ』のリメイクを延々と繰り返すのが、やはりベストだということになる。
ところで、リメイク版『ドーン・オブ』では、ゾンビが走るようになっている。世界中のゾンビ・ファンを驚かせ、怒らせもしただろうこの新機軸、ホラー映画史的には、ダニー・ボイルの『28デイズ』が先駆なのだろう(『28デイズ』そのものは、脚本の下敷きはジョン・ウィンダムの名作SF『トリフィドの日』の、演出がタイトな佳品である)。
『ナイト・オブ』以来、ゾンビといえばとろとろと歩いていたのが、リメイク版『ドーン・オブ』で突如としてスピード・アップしたことの背景にあるのは、アメリカの麻薬事情の変質だと思われる。『ナイト・オブ』の時代は、麻薬といえばマリファナであり、ベトナム戦争で大量流入してきたヘロインだった。つまりは、ダウナー系の時代である。その後、アッパー系のコカインの全盛期が訪れるが、これは金持ち専用で、貧困の寓話としてのゾンビ映画とはマッチしなかった。
昨今の「走るゾンビ」のイメージの源泉は、アメリカの貧困層の間で急激に増えている覚せい剤摂取なのである。雇用の消滅した農村地帯では、白人も黒人も関係なく、貧しい人たちが覚せい剤を自宅のキッチンで作り、時に大爆発を起こしたりしている。プア・ホワイトの場合、階層的にはネオナチとも重なってくるわけで、アメリカの内陸部、農村部は徐々にアフガニスタンと化しつつあるのである。ゾンビ映画を見てひゃーひゃー言っていられたのが懐かしくなるような時代が、すぐそこまで来ているようなのだ。クリントンもブッシュもオバマも、強引にバブルを起こしてでも景気を支え続けるのは、当然なのである。