週末はお茶を

昨日は東京を離れて、山中の亭にてお茶会。茶道、というやつである。
大正期に建てられた小ぶりな日本家屋の一室で、自然光のもと、凝ったお弁当をいただき、美しい道具で丁寧に建てられたお抹茶を喫する。細かい作法に誰もが翻弄されつつ、気の置けない友人たちなので好き勝手なことを言っては笑うということを繰り返しつつ、やがて話題は生臭い話から道具へと移り、作法通りに幕。帰途、坂道の古美術商に寄って、さらなる眼福となった。
でまあ、「お金と権力があったら侘び寂び」というのは、よくわかりました。話が生臭くなるほど、舞台設定は仙人の住まいのようでなくてはならない。権力者であるほど、作法でも何でもいいから、縛られたくなる。醜い現実と格闘するのには、物言わぬ道具たちの美が救いとなる。
戦前の財界人(いや、戦後では松下幸之助まではそうか)の多くが茶人となったのは、このあたりの機微を理解していたからであろう。
翻って、最近の若手経営者で没落を強いられた人たち − ホリエモングッドウィルコムスンの何某、村上ファンド、など、など、など − は、茶道などとは縁がなかった。いや、誰だって縁がないところから入っていくものだから、見向きもしなかった。スーパーカーにファッション・モデルに超豪華な社長室と、浪費の地獄道の入口あたりをうろうろするばかりだった。
成功をおさめるのに、最新のものに飛びつく素早さは確かに必要だろう。だが同時に、古くから愛されてきたものに対して、見向きもしないのであれば、必ず足元が危うくなる。そんなあたりまえの事を、ことさらに意識させてくれたのが、土曜日のお茶席だった。