(休日版) 『ビリー・バット』の飛ぶ空

浦沢直樹の『ビリー・バット』第2巻を読み終えた。謎が謎を呼ぶ……と言いたいところだが、私には何となく作者の目指しているものが見えて、ちょっと興ざめである。
浦沢は、手塚治虫の『火の鳥』がやりたいのだ。
終戦直後の東京から『火の鳥』を説き起こすというのは、悪くない(もっとも、手塚は大阪で終戦を迎えている)。というのも、手塚治虫にとって、「生命」とは終戦時の「生き残った」「死ななかった」という実感のことであり、さらに言えば「これでマンガが好きなだけ描ける」という思いだったからだ。『火の鳥』のテーマ(それとも、通奏低音か?)の「永遠の生命」とは、すなわち「いつまでも生きて、マンガを描き続けられること」なのである。
だから、浦沢が雄大な物語を、一本のマンガ、一つのコミック・キャラが時空を貫くという形で描いていくのは、『火の鳥』へのオマージュとして、正しいように思う。
ただし、それはあくまでも枠組みの話だ。2巻の途中から、イエス・キリストの話が出てくるあたりで、浦沢の限界が露呈している。『モンスター』『PLUTO』と同じ調子で、白皙の美青年が悩みまくるモードに、突入しているのである。だがそれは、日本の近代文学の伝統であって、手塚のバックボーンにあった西洋近代文学、ハリウッド映画の、何と言ったらいいか、肉食系の活力とは正反対なのだ。キャラクターたちがエネルギー過剰だったからこそ、手塚マンガの物語性というのは魅力的だったのだ。キリスト教というよりは、異教(パガニズム)的なのが、手塚なのである。
そして、ナザレのイエスのくだりが過ぎると、さらに『柳生武芸帳』じみた時代劇エピソードが登場する。五味康輔、というよりは『忍者武芸帳』の白土三平へのオマージュなのだろう。ここまで来ると、行き過ぎである。すべてのマンガが『火の鳥』へ流れ込むのでは、『火の鳥』ではなく、密造酒を飲んだ幻覚のようなマンガ・ゴラク版の『バイオレンス・ジャック』だ。『20世紀少年』のような大混乱になるのではないかと、先行きが不安でたまらなくなってきた(と言いつつ、最後まで読んでしまうのだろう)。
初期の作品を読むと大友克洋福山庸治の影響もみられる浦沢直樹だが、大ヒットとなった『YAWARA!』は、まんま『鉄腕アトム』である。ロシアの柔道選手テレシコワこそが、地上最強のロボット、プルートだったのだ。
その後も浦沢は、手塚を再現しようと、四苦八苦してきた。中身的には劇画的だった『パイナップル・アーミー』に書斎派の味付けをした『MASTERキートン』あたりから「悪」の本質を考察しはじめたが、これは手塚キャラ、スカンク草井(だったか?)の名セリフ「アトムは完全じゃないぜ。悪いことができないからな」にずっと悩んできたからだろう。さらにいえば、究極の悪を描こうとして失敗に終わった怪作『MW』の延長という色彩もあった。そして、絶対悪の探求は、『モンスター』の泥沼へと浦沢(それと、浦沢ファン)を突入させていった。
正直なところ、浦沢直樹は手塚の衣鉢を継ぐには、生真面目にすぎる。だからこそ、『YAWARA!』『MASTERキートン』以後の浦沢は、意欲作は必ずまともに結末がつけられないできたのである。演出、脚本ともに合格点なのが、手抜きで描いた『HAPPY!』だけだというあたりに、その点が如実に出ていると言えよう。考えれば考えるほど、話が混乱してくるのだ。
解決策は、何か?
私としては、浦沢は手塚離れをするのがベストだと思う。未完に終わった『NASA』なんて、地味だけれど、おそらく最終エピソードでは号泣させてくれるのだろう、なんていう想像が自ずと湧いてくる、実にいい話だった。『火の鳥』の続きを描いてマンガの神様に接近しようとするよりは、本来の資質に沿った偉大なマンガ職人を目指すべきなのだ。